中途テープ切れ 音声元テープがなく確認出来ず

昭和44年04月14日 夜の御理解



 福岡の唐人町に、国武と言う先生がおられ、もう70を越えたと思いますが、あの無順から引き揚げられた先生で、大体籍は甘木関係の方ですけれども、福岡の吉木先生と同期であったというよしみであちらで修行されて、あそこから唐人町に出られたそうです。戦後の事です。非常に気骨のある先生で、福岡の教会を出られる時に、布教に出られる時に、もう何にも引き揚げ者だもんですから無一物当然です。
 まあですからもう、全て神様のおかげを頂かなければならない。着物一枚食べ物。もうほんとに神様のおかげを頂かなきゃ。そん時に、福岡の教会の床下にですね、御結界のちょいと小道具に使える様なこげな物が、もう捨てた様にして置いてあったのを貰い受けて、それを綺麗に拾うて、それで御結界の小道具に使われておられた。神様ってのは、ほんと私の為に、こう言う様な物用意しておって下さったと言うて、感激してお話された事が御座居ますが。
 福岡の初代の奥城が、また唐人町からちょっと行った山手に御座いましたが、よく家内と奥城にお参りさして頂いては、帰りに寄らせて頂いたもんです。小さいお広前が三畳。御神前が三畳と言った様なとこで、そんでですから、夜具なんかもその、完全な物はない。夏でも蚊帳がないといったような、もう相当の歳でしたけれども、そういう事を、まあ平気でなさる、修行をなさる。非常に表行の出来る先生でしたかね。
 ある時にお参りした時にあのう大坪さん、今朝から私は神様からこげなお知らせ頂いたと言うて言われた。当時その丁、一段三畳のお広前と御神前のとこが高いんです。丁度床の間、床の間のここんところを枕にしてから休まして貰ろとったって。そしたら、三代金光様がお姿を現されてからね、その丁度お取次ぎを頂いておる所を、その頂かれたと。そしてそのお書き下げに怠慢無礼とそう書いてあったっち言う。
 もう身の縮む様な思いをしてから、考えて見ると本当に怠慢無礼な自分である。それにとても私共が見てそれとは感じられない、それ程の修行しておられるからそれはやっぱり、現在でも相当おかげを受けておられましたからね。段々もうあの唐人町じゃない。西新でしたね西新町です。西新の町には以前から、ああいう立派な町ですし、教会もあったんですが、誰が行っても開けなかったんですよ。それでやっぱり、国武先生行かれてからおかげを受けられたんですけれどもね。
その、その怠慢無礼と云う事が神様の目からは、どういう事が怠慢になり、無礼になっておるかと。私その事を思い出す度に何時も思う事が御座いますけどね。あれ程に修行をしておられても、例えば怠慢無礼とこう言うておられると。今日私それによく似た事を頂いた。それはね是は私に下さったんじゃないです。しかし私もそれを考えなければならないと思うんですけれどもね傍若無人。神を恐れぬ行いと仰ったね傍若無。神を恐れぬ行い言動ですねいわゆる。
 言う事する事ほんとにあの頂いてみれば、その人だけの事是はどう云う事かと言うとね、信心が無い者は、是はまあ仕方がないと云う事ですね。信心が分からないもの。神様の事を悪口言う人もあれば、神様はこの世に御座るもんかと言う人には、神様はそんな事に気を留められる事も無かろうけれども、神様ここにあり神様の働きがこの様であると云う事。それが分かっておりながら、傍若無人の振る舞いをする。
 神もないがしろにした言動。言う事する事。ほんとに心の中に、冷っとする様な感じ。そして思うのですけれども、国武先生の、私はその怠慢無礼という言葉を、とこう併せて頂いてですね、銘々がひとつ、ほんとに神を恐れぬ、言わば平気なご無礼を平気な事でやってのけておる様な事が無かろうか、と云う事をですね、思うて見なければいけんと思うんです。今日私あの4時の御祈念を終わらして頂いて、それからどうでしたかね夕食を、今朝も早く朝を頂いたもんですから。
 ひとつ早めにして頂きよったら、豊美が何か箱を探しに来た。大きな箱をっちゅうんですね。何するのかって言うて聞いたらそこの先生の告別式の時に、花輪が横に雨ざらしでそこに置いてあった。ですからあの花を取り片付けるち言う。ほんで綺麗な花だけは、その箱にとってからあげなもん取りなさんなちゅうたけども、いや取る美しいから。そして自分の部屋を飾るとこう言う。
 私はそう云う事にあんまり引っかからない方ですけれども、私がバカな事ばっかりしなさんなと。と言うて私も怒ったんですけれども。それはあのお葬式に取り組むのだから以前の久保山先生の時の、告別式の時の花は勿体無いからと言うて、私はあちらこちらと紛れましたりね。または自分の部屋に菊の花を飾ったり、年寄り達の部屋にもあったりついこの頃までそれがあったんです。ね。
 だからそれが引っかかるとかどうかと云う事じゃないですけれどもね。そう言う様な事をその、例えば平気で言うと云う事に、私は今日ね4時の御祈念に、その時公子さんと家内とおりましたが話した事でしたけども、ほんとに親の心も分からんでこの人はあんな事平気で言うね、と私言うた事ですけれどね。4時の御祈念終わらして頂く時に、その豊美事故に遭うというお知らせを頂いたんです。
 そしてから、一時間後です、そんな事言うのは。自分の部屋をお葬式の花で飾るなんち言うもんですからね。それはまあお試しといえばお試し。ね。けれども、何故かと言うと( ? )の振る舞いとか、神を神と恐れぬ。例えば、それは神を知っておりながら、信心して分かっておりながらですね、そういう振る舞いが、んなら誰の上にでもあるけども、豊美なんかではそれが特に強いんです。
 この人ばかりはもう、ほんとに、傍若無人なところがあるとです。人を人と思わないと、ね。言う様なところが御座います。そうかと言うて神様に向ける神経というのは、ある意味合いにおいては細かいものを持ってる。例えばこの頃の、私、御本部参拝の金光様のお取次ぎ頂いた時に、金光様は、ほんとにあの、冷淡な冷たい態度をお取りになる様な感じの時があるですね。
それは、私がお取次ぎ頂いた時にも、そういう態度おとりになったらしいんです。豊美が見てから「ほんとに金光様は家のお父さんの心も分からんな」というぐらいに、そういう神経を使える人なんです、この人はね言うなら。いわゆる、神様のそれを分かりながらです、時々私が見ても傍若無人な行い、言うならば人を人とも思わない、いわゆる神のそれを恐れない、気もなくそのやってのけたりする様な、言わば態度。
 そういうのが非常に豊美なんか強い。その上に私が4時にお知らせを頂いた。次にこの人が言う事行おうとしておる事がです、私の心にガチッと来た訳ですよね。私は例えば、そういうお知らせを頂いた時には、決して人には言わないです。けども今日ばっかりは、いっぺん言うとかんとですね、言うとかんとあの、私の方が心が汚れ、汚すと言った様な感じでしたから、話をして今も話しておる訳ですけれどもね。
 ですから私共は、そういうお知らせでも頂く時には、それなりに私なりにそれに対して、取り組んで修行しよるです。ですから、信者の中にでも、そう言う様な場合ですね、非常に私が、重荷を感じておる時などはですね、お互いが、それがね、日頃非常に手厚い信心をしておるとか、ほんとに珍しい信心しておるとか、と言う様な人の場合なんかは、そんな事全然感じないです。
 もう毎日毎日が何時もがです、その人の為に私が代わりになって詫びておる、と言った様な人達の場合にそういうお知らせを頂く、ちょっとショックです私が。ね。ですからそれは神様のお試しと言やお試し。今日も丁度母が4時、5時頃でしたですか、下がっておりましたら、ゴソゴソ這い這いしながら、あのコタツのとこから出て来ましてから申します。今朝からその、お夢を頂いたと。
 それがその自分がどっか広いお宮さんのとこにお参りをしておる。ところが鳥居を潜って、ふっとこうやって来ると、両方に石の山犬が、こうやって座っておる。その山犬がね下りて来てから、もうお婆ちゃんにワンワンその吠え掛かって来る。それでもうそこのそこを通り切ろうとして一生懸命なっておる様な所じゃった、と言うんです。ね。ですからそれはお婆ちゃん幾ら年を取っても、どんなに信心が分かっておっても。
 神様は年を取ってるなら取ってる程、言うならば信心が分かっておれば分かっておる程、矢張りより高めて下さろうとする働きが、矢張り信心が分かって来るとお試しがありますぞと仰るから、お試しを受けておる所であると私は申しました。例えば鳥居を潜る時には、お互いが神様の世界に入ろうとする、言わば入信です。信心になった時になるとお道では早速改まれとか美しゅうなれとか磨けとかって云う事を頂く。
 所謂次には所謂あの洗心と言う心を洗う手洗い鉢があると皆さん。そしてそこを越えると今度は両方いわゆる、恐い様なその山犬がちゃんとこうやっておる。ただここんところを恐いけれども通り抜けなければ、神様の前には出られない。自分の心日頃洗心しておる所の洗い、心洗い清めておるその心を言わばあの鈴の音にも似た様な音で、神様にお答えしたり又は拍手を打ったりして神様と通う世界がそこからあるのだと。
 丁度その山犬が出て来て、その今度お婆ちゃんが、自分でも死ぬじゃろうかっち言う程、まあひどかった。何日か具合が悪かったんですね。ですからやっぱ神様からお試しを受けておる。と言うてから、まあお話をした事で御座いますけれども。例えば今度のお婆ちゃんのその病気が、お婆ちゃんに対する神様のお試しであった様にです、例えば今日の私の頂く事も神様のお試しかもしれません。
 そして朝から頂きます事柄。又豊美の事。そして豊美が次に行おうとしておる事。こんな事なんかも私をお試しかもしれません。ですけれども、ここんところは、例えばお試しを下さる神様また、お試しを受ける私は神様が言うて下さる、いわゆる傍若無人とか。神を恐れぬとか、又はあの、国武先生に金光様がお書き下げをもって仰って居られる様にですね。それ程しの信心が出来ておられても、怠慢無礼とこう言う風に、
  (以下切れ)